10月から一ヶ月に一回「セイリー育緒・フィルム写真ゼミ」に参加しています。
全6回のゼミを通して、フィルム写真を学ぶというものです。
10月19日に第一回が終了しましたので、備忘録。
「セイリー育緒のフィルム写真ゼミ」とは
大阪・心斎橋の写真ギャラリーソラリスで、10月から月に一回、セイリー育緒さんによる「フィルム写真の合評ゼミ」が開催されています。
全6回で、フィルム写真ならモノクロ・カラー、男女、年齢、経験問わず。
修了後は、受講生による作品展が予定されています。
詳しくは、ソラリスのWeb サイトでご確認ください。
ゼミ受講の心構えと第一回目の課題
余談になりますが、ちょうどフィルムを初めてみたいと思っていた矢先、このゼミを知りました。これは参加するしかない、と。
実は、写真のゼミやスクール、ワークショップなどはほとんど参加経験がなく、また撮影会なども経験皆無と言っていいくらいです。
たぶん、今後もあまり積極的にはなれないと思っています。
それなのに、なぜ参加しようと思ったのか。
「先生がセイリー育緒さんだったから」
これだけです^^;
以前、彼女の写真展を拝見して、ものすごい力強さと魅力に打ちのめされました。(過去記事「セイリー育緒 写真展 “ 45min. ” を観てきました」参照)
また、家にある古いカメラをもう一度使いたいと考え始めた折、たまたま読んだ古いカメラ雑誌の電子版に、セイリー育緒さんが紹介されていました。
彼女は、素晴らしい写真を撮る一方で、カメラの修理もできる方なのです。
カメラを直してもらうなら、ぜひこういう方に頼みたい!!
と思っていたところ、ご縁が巡ってきたというわけです。
カメラを直していただき、今度はゼミへの参加。ミラクルです。
余談が過ぎました。本題に戻ります。
初回ということで、まずは受講者の自己紹介。
自己紹介では各自、写真歴や受講の動機など、緊張しつつも和やかな時間となりました。その後の嵐など知る由もなく(笑)
まず、受講にあたってセイリー先生から「ゼミの心構え」をお話いただきました。
心構え
- 「褒められたら負け」だと思え。
- ボッコボコにするから、そのつもりで。
- 自分で写真を選ぶな。(撮った写真はすべて見せる)
- 組写真で作品をつくっていく。単写真は扱わない。
面白いと思うのは「写真を選ぶな(セレクトするな)」というところ。
フィルム一本撮ったら、すべてプリントし、見せろ、と。
自分の価値観や好みで写真をセレクトすると、自分の世界から出ることができないということでしょうか。
実際に写真を見ながら「ここにない写真に、いいものがいっぱいあったはず」という言葉を何度か聞きました。なるほど。
次に課題。ゼミを通してどう学んでいくか。
課題
- 各自、半年間で取り組むテーマをひとつ決める。
- 期間が短いので、途中のテーマ変更はなし。
- 決めたテーマで最後まで撮り抜く。
というわけで、第一回目は、これまでに撮ってきた写真を見ていただき、半年間の制作テーマを決めることになりました。
自己紹介などがあったため、一人あたりの持ち時間は7〜8分……ということでしたが、毎度オーバーしていました。
タイムキーパーに任命された橋本オーナーは大変だったと思います^^;
次回からは、一人15分くらいあるということなので、ちょっと安心。
私は、フィルムで撮影したものがほとんどなく、どちらかと言うと「テスト撮り」ばかりで(無謀にも)挑みました。
「ボッコボコにする」の意味(自分的解釈)
セイリー先生のゼミでは「ボコボコにされる」と聞いていたので、どういうことなのか楽しみであり不安でもありました。
噂によると、泣かされる人もいるらしい!?
他の誰でもなくご本人が何度もそうおっしゃるので、きっとものすごいことが起こるのだろう、と。
これは覚悟しておかなくてはいけない。
気持ちを強く持って挑まなくては。
そんな風に思っていたわけですが、実際にお話を聞いて納得しました。
解釈はいろいろあると思いますが、私なりに感じたことを整理しておきたいと思います。
まず写真を俯瞰して、撮影者の話を聞いた後、間を置かずに突っ込まれます。
突っ込まれるポイントは、まさに「突かれたくない部分」であって、言い訳の余地はない。
「どこにでもあって、誰にでも撮れる」「花と食べ物はいらない」「自分ってものがない」「技術はいいんだけど、それだけ」「なんでこんなん撮るんかわからん」「何が言いたいのか全然わからん」「これ見せられて、どうしたらええのん?」などなど。挙げればキリがない。凄まじい。
参加者の多くは、デジタル・フィルム問わずそれなりに経験のある人が多かったので、正直グサッときたと思います。
例えるなら、見て見ぬふりをしてきた「開かずの扉」を容赦なくこじ開ける……どころか叩き破られる。そんな感覚。
しかも、本人さえ「そんなところに扉なんてあったっけ?」と意識的(あるいは無意識)に忘れていたような扉をピンポイントで。
この扉の中には、体裁よく心地いい部屋の中には不要な、赤裸々で生々しいものが詰まっていて、散らかったり埃を被ったりしている。
「えぇ〜!?そこはちょっと……」と止める暇もない。また、止めようとしても、無駄。慌てて取りすがっても、扉はガッツンガッツン破壊される。
破壊された扉は、元には戻らない。開いてしまったら、もう一度閉めるなんてことはできなくなる。
自尊心が傷ついたり、見られたくない部分を見られて恥ずかしかったり、悲しかったり、戸惑ったり、憤ったりするかもしれない。
それでも、真正面から突きつけられる。
そうやって叩き壊してもらって、初めて新しい世界が拓ける。
そこから目を背けて逃げ出すか、恐る恐るその部屋に踏み込んでみるか。
それはその人次第だと思います。
暴力的に否定しているようでいて、細やかに語られる言葉は明瞭で、受け入れる体制さえ整っていれば、熱を伴って浸透していく。
ゼミに参加しようと考える人は、それぞれに行き詰まっていたり、迷ったり、悩んだりしていると思います。
それを乗り越えるために必要なのは、自分では壊せなかった扉を壊すこと。
耳に心地いい賛辞と楽しいだけのディスカッションでは、扉の姿さえ見えてこない。
触れたくない部分を暴いて晒すことは痛みや苦しみを伴うかもしれないけど、それはきっと、先生も同じだろうと思います。
以前、ある写真展について先生が厳しい意見を書かれていました。そのことについて訊いたことがあります。
「たとえクソババアと言われても、言わなきゃいけないことがある」
とおっしゃっていました。カッコイイ。
この言葉で、もし叶うなら自分の写真を見てもらいたい、と思ったのでした。
こんなすぐに、チャンスが巡ってくるなんて。
それにしても、ボッコボコにされるのが快感になって、未知の性癖が暴かれたらどうしよう(笑)
個人のレベルに併せてきちんと言葉を選んでるのがスゴイ
前項の通り、容赦のない言葉が浴びせられるわけですが、すべての人に同じ課題が押し付けられるわけではありません。
一人ひとり違った課題を見抜き、またどういった立ち位置にいるのかを掴んで言葉を選んでおられるように感じました。
これはとても重要で、難しいことだと思います。
強い言葉で意見をするということは、個性を押しつけたり、曲げてしまったりする恐れがあります。
強引な指導者についてしまうと、自分の作品制作ができなくなる、というのは、残念ながら珍しいことではないようです。
今回でいえば、写真の経験が浅い人には刺激が強すぎるんじゃないだろうか……と思ったりしたのですが。
実際はまったくそんなことはなくて、一人ひとりに合った言葉で、なおかつ理解が深まるように丁寧に話してくださいました。
厳しいけど、すっごく優しさを感じる方ですね、セイリーさん。素敵。
気になったことば
ことばのひとつひとつを聞き逃すまいと集中してしまって、メモを取る手がおろそかになってしまいました(汗)
そんな状態でしたが、心に残った言葉がありましたので書いておきます。
先生の言葉だったのか、先生の言葉を聞いて自分が展開したキーワードなのか、曖昧なところがありますが、ご容赦ください。(順不同)
- 写真を「組む」ことを考える。組んで物語(テーマ)を詰めていく。
- 撮影場所・被写体は、自分で選ぶ(決める)こと。観光地や人気撮影スポットは、作品づくりには向かない。
- 「写っているモノ」ではなく「テーマ」が重要。
- 「写っているモノ」に目がいくようではダメ。作品としてどう見えるかが大事。
- ナチュラルと無頓着は違う。大きく違う。
- フィルムでなければならない理由があるか?
- デジタルとフィルムの違い……「心構え(枚数の制限により一枚への意識がより強くなる)」「撮ってから見るまでの時間」や物質的な制限による「客観性」
- デジタルでは、心のなかで「後からなんとかすればいい」と思っている。思っていないという人もいるだろうが、絶対に思っている。
- 今まで撮ってこなかったものを撮ってみる。=今まで目を向けなかったものに目を向ける。
- 自分で作った世界から抜け出せ。
- 視点を意識すること。
- 疑うところから始める。
- ピント(焦点)や構図に惑わされてはいけない。ピンボケより構図よりシャッターチャンス。どんどん撮れ。
- 「絵になる」とか「絵にならない」じゃない。
- 好き嫌いでもない。
- ズームレンズはダメ。世界を自分勝手に切り取ってしまう。
- 単焦点の固定された画角に伴う客観性がいい。(35〜50mmくらいがいい?)
- 一枚一枚で語りすぎてはいけない。
- 「スキがない写真」「巧すぎる写真」は完結してしまう。見る者を受け入れる余裕がない。
- 思い入れが強すぎるものは、個性が出すぎてしまう。だから見る者が入り込めない。
- 「どうだ、これすごいでしょ」という写真は、それだけで終わってしまう。
- 自分の中で完結しているものは、写真(作品)にならない。
- 写真から漂ってくるモノ(=足りないモノや余分なモノなど、全部)が見る者の心を刺激する。
- 写真は、一枚で語りつくすことはできない。何十枚もの写真を通して、メッセージが描き出されてくる。だから、写真を組む。
- 「なぜ、それを撮るのか」を自問する。無意識の偏りを見つけ出し、理由を探る。それが明確になると「いい写真」に一歩近づく。
- 写真は、どれほど経験や技術があっても、常に、いつまでも「実行と反省」の繰り返し。終着点はない。
以上、書きなぐりの汚いノートから整理してみました。言葉が足りないとか解釈が違うとか重要なことが抜けてるとか……いろいろあると思いますが、ご容赦ください。
また、当然ながらこれは、セイリー育緒さんの考え方です。
写真全ての「答え」ではないということを前提としてご理解ください。
「答え(正解)はひとつじゃない」ということ
「いい写真ってなんだろう」
「どうすれば『いい写真』になるんだろう」
「どう撮るのが正解なんだろう」
こういったことを考えに考えて、なかなか答えが見いだせない……という方も多いと思います。
また、答えを探すために数々のセミナーやワークショップに参加して、多くの「先生」のお話を聞きいてきた方もおられることでしょう。
そのたびに「今日こそは答えが聞けると思ったのに、残念……」と感じる方もいらっしゃると思います。
しかし……残念ながら、答えは見つからないと思います。
なぜなら「たったひとつの答え」など無いからです。
マークシートの学力テストのように、唯一絶対の「正解」は、表現の世界にはありません。
でも、作品展など観に行くと「いい作品(写真)」と「ビミョーな作品(写真)」があります。
その違いは何なのか?
ここで感じる「いい」とは何なのか。
これを考えることは、私にとって目下の課題となっています。
これは「誰かに教えてもらうもの」ではなく、「自分で見つけ出すもの」あるいは「自分で定義するもの」だと(今のところ)考えています。
非常に主観的で曖昧な、言葉にして伝えるのが難しい感覚ですが、ともかく「こうすればいい」というマニュアルはなく、自分の中に埋没している答えを見つけ出さなくてはならない。
そのためには、自分が何を「見ている」のか。何を「暴き」、何を「語ろうとしている」のか。
そういったことを、徹底的に探求しないと見えてこないのではないか。
そんな風に考えています。(今のところ・笑)
そして、探求にはあらゆる角度からのアプローチが必要です。
ある程度アタリをつけることは必要ですが、ごくごく小さな穴をいくら深く掘り続けても、水脈を探し当てることは難しい。
自分がつくった小さな視野に引き篭もらず、広く柔軟な視野を持って模索、実践、検証を繰り返すことで、自分の「いい」ポイントが見えてくるんじゃないか。
セイリー先生のゼミを受講して、そんなことを思いました。
先生の言葉がどれほど素晴らしく、心に響いたとしても、それだけではまだ、私の言葉にはならない。
先生の「いい」をなぞっているだけでは、ただの「劣化コピー」になってしまう。
今回、ゼミのテーマを決めるにあたり、自分では思いもしなかった(正直、向き合いたくなかった・笑)部分が暴かれました。
時間を置いて何度も考えていると、さまざまな可能性と課題、挑戦すべきものが見えてきたように思います。
これから実践を通して、さらに課題が見えてくるはず。
これが「進むべき道」かどうかはわからないけども、まずは全力で向き合いたいと思っています。
まとめ
緊張の第一回を終えて、早くも次回が待ち遠しい!
約一ヶ月、今回決めたテーマで写真を撮っていかなくてはいけないわけですが。
まずは、壊れた扉の破片を整理して、部屋に踏み込めるようにしていこうかな。
最後に。
受講者として大事なのは、疑問や不明点を残さないこと。また、意見があればしっかり伝えること。納得できないまま放置しないこと。そして、言葉を受け止める覚悟を持つこと。
学ぶってのは、どんな分野でも一緒ですね。
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