購入年月:2017年1月
今年1月3日、「セイリーさんと読む写真論『明るい部屋』@ギャラリーソラリス」に参加しました。
なんと三が日からの写真イベントです・笑
京都や東京でも実施された人気イベントの凝縮版。
昨年、ソラリスや京都でこの教室が開かれると知ったときに、ずいぶん悩んだのでした。
ちょうど、育緒先生のフィルム写真ゼミへの参加を決心したころで、また吉川先生のフォトディレッタント(@ブルームギャラリー)にも毎月参加を目指していて、お金が無かった・笑
資金難は冗談半分にしても、あれこれ掛け持ちするには時間的な制約も気になったり。
そんなことがあったので、年明けから凝縮版をやってくださると聞けば、参加しないわけにはいかない。
定員ギリギリの滑り込みで参加させていただきました。
7ページ目で挫折する写真論「明るい部屋」
育緒先生曰く「みんな、7ページ目で挫折する」という写真論「明るい部屋」
私も購入から半年ほど、読んではやめて、また読んではやめて……を繰り返していました。
昨年夏ごろに、ようやく意欲が湧き、やっとの思いで読了したのでした。
ちなみに、それまでの挫折がなんだったのか、意外とするりと読めてしまいました。
その後、折々に気になるページを読み、イベント前にはもう一度再読しての参加になりました。
多くの人が7ページ目で挫折するのは、各所に出てくる哲学用語や独特の名詞の意味や言い回しが耳慣れないせいだと思います。
加えて、花輪光氏の翻訳は非常に生真面目で、難しい言葉が多い、というのは育緒先生のお言葉。
個人的には、それほど難解な文章ではないと思うのですが、核心が見えないというか、ふわっとしているというか……なにがわからないのか、それさえも曖昧でわからない……
そういう印象の本です。
ところで、この本の本文は7ページ目から始まっています。あれ?笑
「前言撤回」の衝撃
前半を読み終えるころ、ページ数にして70ページを超えたあたりで、衝撃の「前言撤回」宣言。
もくじを見ずに読み進めていた私は「なんでやねん!」とベタなツッコミをしたほど衝撃を受けました。
だって、聞きなれない哲学用語になんとか追いすがり、ところどころググりながらやっとの思いで登ってきた五合目。ここで「いやー、ちがってたわー!今までの無しな!」みたいに言われちゃったらねー、もうねー、がっくりですよ。
ところが、この本の真髄はここからなのでした。
それまでの「ガクジュツ的」な論調から、情熱的で感情豊かな文章に変わってきます。
また、前言撤回というものの、すべてを否定するというわけでなく、論じる次元を変えたという感じ。
「社会一般」のレベルから「ロラン・バルト個人」にシフトすることで、彼が掴みたいと思い続けた写真の本質をさらに深く探る展開になります。
「写真とは何か?」その明確な答えは無い
この本を読めば、価値ある写真のなんたるかがわかる、と期待(または誤解)している人が多いかもしれません。
しかし、隅々まで読んでも、そんなことは書いていません。
強いて言えば、心揺さぶられる写真に出会ったとき、その揺さぶりはどこから来るのか? それを探るためのヒントが散りばめられている、と思いました。
後半には「写真のノエマ」という言葉がよく出てきます。
「ノエマ」とは、
ドイツの哲学者フッサールの現象学用語。フッサールによれば、意識の本質は「指向性」、つまり「――の意識」であることにあるが、その指向の仕組みは、ギリシア語で思考作用をさす「ノエシス」と、思考されたもの(対象)をさす「ノエマ」の両概念によって説明される。指向とは、意識が実的(レーエル)な作用としての自己自身を越え、対象的なものにかかわる超越の働きであるが、その際の対象が、思考されたものそれ自体としてのノエマ的―意味的な対象である。(コトバンク)
……つまり、なんなのよ?笑
この部分は、現象学というものを紐解いてみないと、本当のところは理解できないのかもしれません。
(こういう部分が、本書の「わかりにくい」ところなのかも)
物質としての「写真」は印画紙に化学変化でもって光を定着させたものといえますが、通常、私たちは「写真」をそういう意味で表現することはありません。私たちが「写真」と言うとき、写されたモノ(被写体)そのものを指すこともあれば、その影像全体から読み取れる文脈をさすこともあります。
ざっくりいうと、物質的ではなく感覚として認識されるもの、それを「ノエマ」というのかな、と。
そしてバルトは、「写真のノエマは『かつて、そこに、あった』である」と言います。
そんなの当たり前やん! なにを改まって。
でもここが重要で、「かつて、たしかにそこに存在した(あった)」ものが平面に写し取られ、目の前に現れたとき、ソレから何を読み取るか?
社会一般の常識に倣ったストーリーを読み取るか、あるいは、紛れもなくそこに写し取られた現実を正面から受け止めるか。
それは、鑑賞者(写真を見る人)に委ねられる、というのが、バルトの結論です。
バルトは写真を「鑑賞者(見る人)」と「被写体(撮られる人)」の立場から写真を読み解いていますが、「撮影者」の立場からも大いに得るものがあります。
結論として写真が鑑賞者の感覚に委ねられるのなら、撮影者は「ただ撮る者」にしかなり得ないのではないか。
「作家」が、作品(写真)についてどれほど語ろうとも、写真から何を読み(感じ)取るかは鑑賞者に委ねられるのなら、作家の言葉は押し付けになってしまいます。
写真は、鑑賞者の前に現れた瞬間から作家(撮影者)の手を離れ、「写真のノエマ」を伴って鑑賞者の意識に委ねられる。それこそが「写真の姿」であると解釈しました。
これから読む人のために
「7ページ目で挫折する」というのはやや大げさですが、15〜20ページくらいまでを行ったり来たりする人が多いのではないかと思います。
その要因のひとつは、ロラン・バルトという人物が何者なのかわからない、ということがあるように思います。
バルトが何をする人で、なぜこの文章(本)を書いたのか。そういった前知識があれば、ずいぶん読みやすくなります。
聞きなれない(見慣れない)言葉も、バルトが何者であるかを理解すれば、調べようもあります。
具体的な意味がわからずとも「ああ、哲学的に分析してるんだな」とか「分析のための準備なんだな」とか「ナントカ学の専門用語かな?」というくらいがわかれば、どうしても気になったところだけググってみることもできます。
どこの誰が何をベースに語っているのか。
ちょっと面倒ですが、ウィキペディアなどでもいいので目を通しておくと、かなり読みやすくなると思います。
また、機会があれば「育緒先生と読む写真論『明るい部屋』」に参加することをオススメします。
この講義では「明るい部屋」を読むために前提となる、ロラン・バルトその人について、育緒先生が優しく面白くお話してくださいます。
喉に引っかかり続けていた小魚の骨が、あっさり抜けるような快感を得られること間違いナシの講義です。(ステマ臭いけどステマじゃないよ!笑)
セイリー育緒さんの情報は「FILM CAMERA REVIVAL」などでチェックできます。
最後に
先の項でも書きましたが、この本を読んでも「魅力的な写真とはどういうものか?」なんてわかりません。
ごく当たり前の「それは、かつて、あった」という紛れもない写真の性質を改めて認識し、その上で、ある特定の写真に対して抱く思いはどこから来るのか、自分自身で深く考えること、そのためのヒントが愛とともに語られているのではないかと思います。
心がビリビリと揺さぶられるような写真は、万人にとってそうであるとは限らない。
どれほど有名で、希少性があり、歴史的に貴重で、市場価値の高い写真であっても、どう感じるかは個人個人バラバラです。
何の変哲もないスナップに心が掻き乱されることもあるだろうし、一億円の写真に何も感じないこともある。
それを素直に受け入れ、自らの心と対話することが、いかに大事なことか。
それを教えられた一冊でした。
写真を撮る者として、今後、何度もページを捲ることになりそうです。
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