先週末、最終日の柏木敏孝「蝶の眼」(@ブルームギャラリー)を見てきた。
ポートフォリオもあったので見ていると、一枚だけ左右反転している作品があった。プリントする際、裏表にプリントしたものとわかるけど、どうしてそんなことをしたのか、気になりました。
幸い、ご本人がおられたので図々しくも訪ねてみたところ……
「単純なミス」とのこと。えっ?Σ(・ё・;)
プリントする際、自分のイメージにあったとおりにやったら、反対だったそうで。(フィルムが裏表になっていたんですね)
プリントして間違いに気づいたけど、自分の中にあった風景のとおりだったから、そのままにした、と。
なるほど。
そこでふと「あー、アナログの面白いところかも」と思ったのでメモ。
ところで、柏木敏孝氏の作品について語れるほどの知識も経験もないので、ここには書きません^^;
アナログの柔らかさと深さに気づいた
反転現像された作品は、記憶違いから生まれた。
ということは、
自分の生の感覚が表に出る余地があった、と言えるかもしれない。
デジタルは、ある意味「完璧な答え」を提示する。たとえば、写真を反転するなど意図的にしない限りありえない。フィルムでも現像・プリントをお店に任せれば同じだけど。いや、ネガを眺めるうちに発見があるかもしれない。
このエピソードから、感覚による間違った情報の柔軟性というか可能性の深さにハッとした。
記録ではなく、自分が感じた光景を写真にしようとするとき、アナログの可能性はデジタルよりも柔らかく大きいのかもしれない。
アナログに回帰するのは、そういう柔らかさへの憧憬が理由のひとつのように思えた。
似たようなところで、デジタルによる写真加工について考えることがある。
レトロ調やノイズ(劣化)などの加工は日常的に行われているけど、実際それは、決められたスタイルに従って演算される。
デジタルによる加工は「自分が思うようにどんなことも可能」である反面、自分が思う(認識できる)範囲に限られるし、間違った情報は「正しい情報」に無意識レベルで書き換えられる。
具体的に言うと、日常的に行われているレトロ調写真の加工は、自分が知っている(または一般的な)「年月を経た写真はこうである」という定義に基づいて、それに近づくように手を加える。
そこには、時間が作る本当の意味でのノイズや経年劣化は存在しない。どこかにあったノイズ・経年劣化の見た目をコピーして合成しただけなのだから。
それを、本当に生の感覚から生まれたものといえるかどうか。私には、違うように思える。
生のままの心象風景を描くには、正確な情報が少ない状態でむき出しの感覚に神経を尖らせ、素直になることが大事なのかもしれない。
そういえば、スタジオジブリでは作画する際に写真を見て描いてはいけないという話を、昔々どこかで聞いた。(これも間違った情報(記憶違い)かもしれない)
写真を模写するのではなく、心(頭)の中にあるモノを描け、というようなことだった。
写真だけでなく、日常生活にも言えることかも。
話が逸れるようだけど、身の回りにある情報との付き合い方にもリンクするような気がした。
国境を超えて収集・整理・分析される膨大な情報(ビッグデータ)は、個人をさまざまに分類し、適切な情報を選び出して提示する。
よく言われる広告だけでなく、Instagram も Facebook も Twitter も、タイムラインはパーソナライズされ「おすすめ情報」を教えてくれる。
それらは、私たちに「無意識による方向性」あるいは「強く共感する情報」を示してくれることもあるけど、「まったく思いがけない出会いや発見」をもたらしてくれることは少ない。
自身の言動に紐付けられた情報は常に最適化され、精度を上げていく。
そうして、(極端にいえば)目にする情報が全てだと思いこんでしまう。
自分の好みに合わない情報に触れる機会が減り、意に沿わない情報は虚偽または悪だと判断するようになるかもしれない。
先日のアメリカ大統領選挙でも、Facebookでこれに関連するような話題があって、気になった。
(ザッカーバーグCEO、Facebookと大統領選について語る──「“真実”を見極めるのは困難だ」 – ITmedia ニュース)
※話題が逸れるのでリンクを紹介するだけにしますが、とても興味深いのでぜひ読んでみてください。
SNSやそれに紐付いたネットニュースを利用するシーンはもはや日常になっているけれど、自分自身の五感で生のままに触れる感性を忘れてはいけない。と、改めて感じたのでした。
まとめ
デジタルをdisるのではなく、もしろその良さを意識しつつ優秀なツールとして積極活用したいと思っています。
ただ、その便利さ、正確さ、潔癖さが全てではないことを肝に銘じておきたい。
ひとは、自分でもわからないうちに強い印象を心に焼き付けています。それは間違った情報かもしれない。けれど、わたしという個人が、なぜかそういう情報を刻んでしまったわけですから、なにかしら心が欲したものがあったのだろうということです。
それを「間違っている」として正しいデータで上書きしてしまうのは、すこし寂しいなぁと感じます。
デジタルが記録したものは目の前に静かに存在するので、それらを頭のなかで生の感覚に近づくよういじり倒す柔軟性が持てたら楽しそう。もしかしたら、そういう能力(?)はデジタルネイティブ世代には芽生えているのかもしれない。
とまれ、正確さよりも、感じた生のままの絵を刻めるようになりたいなぁ。
……はい、なにがなんだかわからなくなってきたところで、おしまいにします。
ほいでは、また。
追記
この記事を書いている途中、大好きな写真家のひとり白岡順氏が、今年3月に亡くなられていたことを知りました。
「楽しい趣味カメラ」から「表現手段としての写真」へと意識を変えるきっかけをくださった方でした。(勝手にそう思っているだけですけども)
自分なりに何かが掴めてきたら、そのときにまた作品を拝見できたらいいなぁなんて思っていたのに。
ご冥福をお祈りします、なんてセリフは空っぽに思えてしっくりこない。といって、適切な言葉も見つからない。
白岡順(コトバンク)
白岡順氏の写真と出会ったのはブルームギャラリーでした。そして、一度だけワークショップに参加して、彼の言葉を聞くことができたのは、私にとって大きな意味を持つ経験でした。
あー……ほんとにまだ信じられないわ……
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ピュアは毒なり とアナログ寄りに記事を書いています。